あまごのぐーちょきぱー

ぐーちょきぱーでー(×2) なにつくろー(×2)

滝つぼと思考のどつぼ

2014年発売のIPadAir2で動くんだから、このアプリは偉い。という謎のボーダーラインを独自に設定しています。

あまごです。

 

閑話休題

 

私は本当に何も見えちゃいなかったのだ。例えば日々、駅構内のトイレ付近でアナウンスされている『滝の御トイレ』についてだ。 

 

毎日毎日、アナウンスされている『滝の御トイレ』。だが私は恥ずかしながら『滝の御トイレ』を使用したことがない。この歳になるまで、まさか使用することがないとは思ってもみなかったが、そういう人もまぁ少なからず居るのであろうと想像する。なぜ想像なのか。それは、私以外から『滝の御トイレ』に関する一切を聞いた事がないからである。私はいま勇気を出して『滝の御トイレ』と記述しているが、もしかしたら言葉として発する事はおろか、文字に打つことすら憚られるようなものなのかもしれない。私には分からない。

 

私にできる事、それは『滝の御トイレ』について考えてみることだけである。滝の、と言うくらいであるからして、そこに入れば雄大な景色が広がっているのかもしれない。周りは草原で所々に背の高い木が生えているのが見える。空は青く、点々と存在している白い雲とのコントラストが実に清々しい。黒い点のようなものが空で動いている。鳥だろうか。奥に目をやると、虹が掛かっている。私はしばし見惚れてから、虹の方へと歩み始めた。

 

しばらく歩いていると、虹の周りに細かい水飛沫が舞っているのが分かった。加えて、重低音が地鳴りのように響いてきた。その音が下腹を揺らし、そこですっかり忘れていたことを思い出した。放尿するためにここに来たのだ。周りをきょろきょろしながら、虹の方へと歩みを進める。虹のあたりに人影らしきものが確認できる。10人ほどであろうか。等間隔で横並びだ。みな虹の方を見ている。同じ境遇の人たちだろうか。訝しみながら進んでいく。

 

どこまで進むべきなのか、と考え始めたところで、もう考えなくて良いと気づかされた。断崖絶壁。もう進めない。恐る恐る、崖の下を覗き込むとなるほど、滝がある・・・。崖の途中から水が勢いよく飛び出していた。下の方は霧が掛かっていて見えない。

 

さて、と一息つき思案する。確かに『滝の御トイレ』に入り、『滝』はあったが果たして『トイレ』はどこにあるのだろうか。ここに来るまでの道中でそれらしい形の陶器は見当たらなかった。一体・・・。崖には同じように10人ほどが等間隔で立ち尽くしてい・・・

 

立ち尽くしてはいなかった。1人がズボンを上げ、チャックを閉めたのだ。ハッと感じて周りを観察すると、崖に立っている人たちは一様にズボン、パンツを下げていた。私は何かに気が付き始めていた。等間隔で横並びの男たちの股間辺りに、これまた等間隔で小さな虹が出来ていた。これが・・・滝の、御トイレ・・・。

 

いや、まて、いくら『滝の御トイレ』だからって実際に滝があるわけでもなかろう。個室の一つが滝になってて、簡易修行場になっているとか、そういう事なのかもしれない。そうさ、『滝の御トイレ』だって・・・

 

滝の御トレイ

滝の御トレイ

タキノオトイレ

タキノオ トイレ

多機能 トイレ

多機能トイレ

 

 

単純に『滝の御トイレ』は『多機能トイレ』の空耳だったのです。油断しているとき、何も考えていないところなんかで、『多機能トイレ』を『滝の御トイレ』だと空耳することがある。そんな時、こんな妄想をするとかしないとか。

 

しかし私は多機能トイレを使用したことがない。つまり、『滝の御トイレ』の可能性もあるんじゃあないかとちょっとは思っている。「シュレディンガーの猫」の思考実験のように。という思いを綴った物語。

味気ないあるよ

オロナインと正露丸に共通する、万能では無いけれど万能、といった万能感が好きです。

あまごです。

 

閑話休題

 

お気に入りのランチを出してくれる店を見つけた。べらぼうに味が良いとか、通っていることを自慢すれば羨望の眼差しが貰えるというわけでもない。いたって普通と言うべき店である。ではなぜ私はその店を気に入ったかと言うと、ランチドリンクに牛乳があるからだ。コーヒー、紅茶、牛乳、といった具合である。ミルクではなく牛乳という表記がまた良いではないか。また、ランチの場合はドリンクとフルーツを選べるのだ。比較的女性のお客が多いのはきっとそういう気遣い、気配りによるところなのだと思う。

 

その日も私はランチの定食に牛乳、という個人的鉄板の組み合わせを注文した。スマホをぼんやり眺めながら料理が出てくるのを待っていた。ふっと周りを見渡せば、やはり女性の比率の方が多いようであるが、男性もちらほらと居た。手帳に何かを書き込んでいたり雑誌を読んでいたり、外をぼんやり眺めたり・・・それぞれがそれぞれの時間を過ごしているようだった。

 

程なくして、料理が運ばれてきた。豚の生姜焼き、サラダ、ライス、牛乳だ。スマホを置き、頂くことにする。個人的鉄板ランチに舌鼓を打っていると、左前方にいる客が目に入った。客が、というよりテーブルの上のランチに、と言った方が正しいだろうか。その客の前には、ライスとリンゴがあった。ドリンクではなくフルーツを選択したのだろう。確か今日のフルーツはリンゴであったはずである。おそらく何かの定食を注文し、メインとサイドを食べきり、残ったのがライスとリンゴ、といった状況であろう。

 

しかしまぁ別段、何か可笑しな素振りを見せていたわけでもない。その客は肘をついて雑誌を読んでいるらしかった。さきほど個人的見解で『残った』と言ったけれど『残した』が正解なのかもしれない。その客からは満腹で幸せな食後と言った雰囲気が漂っていた。私はモグモグとランチを続けた。左前方の客は黙々と雑誌を読みふけっていた。

 

私のランチが終盤に差し掛かろうという所で、左前方の客がゆくりなく雑誌を閉じたかと思うと、もの凄い勢いでフォークでライスをすくい口へと運んだ。あまりの急な動きに私は多少狼狽しながらも、時間的締め切りに迫られているのか?と思案した。思いのほか多めのライスを頬張ったのか、咀嚼が止まらない。しかしその客は、次の一手を講ずるのだ。フォークでリンゴを刺したかと思うとそれを躊躇なく、口へと運んだ。そして第三の矢。再度フォークでライスをすくい口へ。

 

頬袋があるとでも言うのか・・・。私はぼんやりとそんなことを思った。リスなどが持っている、顔の両側にあるポケットのようなものであり、そこに食糧などを貯めることが出来るのだという。まさにいま、ライスとリンゴを両頬に貯め込んでいる形となる左前方の客である。新たなる人類の誕生を目の当たりにしているのでは・・・。

 

などと妄想を飛ばしている最中に、件の客は手早く荷物をまとめて会計へと向かった。しかしライスとリンゴを同時に口の中に入れるとは・・・。いったいどんな味がするというのだ。まぁ絶対に試すことは無いだろうなと確信した私は、牛乳でライスを喉の奥へと流し込んだ。

 

リンゴライスは見た事がありますがやったことはないです。牛乳ライスは私自身やったことあります。全然平気です。まぁでもきっとどっちもどっちなのだろうなという思いを綴った物語。

身勝手な眼鏡と色眼鏡

数々の消臭・芳香剤を試しましたが、未だにコレだって言うものに出会えません。とりあえずファブリーズに泣きつく次第。

あまごです。

 

閑話休題


最寄り駅の近くに、古びた眼鏡屋がある。ショーケースは曇っており、その中には申し訳なさそうに、辛うじてそこが眼鏡屋であると分かる程度の眼鏡が置いてある。


壁には時を刻むことを忘れて久しいであろう、常に同じ時間を指示している古時計がある。それはまるでその眼鏡屋が変わらずにそこに有り続けている事を証明しているようである。そういう威厳めいたものを感じる。


奥には壊れかけた茶色いソファーが佇んでいる。お客を待っているのか、果たしてお客が来たとして、そのソファーに腰を下ろす事すら憚られるぐらいには調子が悪そうだ。


その眼鏡屋には一匹の猫が住んでいるようで、前を通るたびに私は招き猫であると言わんばかりの顔で外を見ている。その猫は左前足を怪我している。というか、左前足が無い。事故にでも巻き込まれたのだろうか。あぁ可哀想に。何かと不便であろう。


そんな事を思いながら猫を見ていると、左前足の無い体を上手にバランスを取りながらひょこひょこと歩き出し、壊れかけたソファーに飛び乗りクルリと身体を丸めて目を細めた。なるほど君のものだったのか、私はひとりごちた。


すると奥から老人が現れた。眼鏡屋の店主だろうか。白髪で無精ひげを蓄えている。眼鏡はしていないようである。その老人は猫をひと撫でしてから、私の方を向き開口一番こう言った。


「曇っているよ」

 

急に話しかけられて私は狼狽した。天気の話だろうか。空を見上げてみた。見上げるまでもなく今日は晴天で、暑いくらいだった。しかし思わず見上げてしまった。それくらいに老人の一言には説得力があった。訝しむ私に気づいたのか、少しの間を置いて老人は言葉をつづけた。


「あんたの眼鏡、曇っているよ」

 ー眼鏡が、ですか?

「眼鏡も、かな」

 ー眼鏡も?

「未来が見える眼鏡があるよ」

 ー未来が?

「よく見える眼鏡は未来も見える」
「曇っていては見えない未来もある」
「度が合っていない眼鏡では取り逃がす未来がある」


「君には君のための、相応の眼鏡があるんだよ」
「そういう眼鏡が、君にぴったりの眼鏡があるんだよ」

 

私は心を貫かれた思いだった。そうか、そうだったのか。私には私の眼鏡があるのだ。自分の目で見たからと言って他人のレンズを通してしまっては意味がない。私はついさっき、猫の不自由さを身勝手に嘆いたが猫にとっては私の嘆きなどどうでもいいのだ。意外と何とも思ってはいなくて、猫は猫でその人生を謳歌しているかもしれない。私は身勝手な眼鏡を通して、猫と人間を同じ物差しで測ってしまっていたのだ。


 ーありがとうございます。なんだか分かったような気がします。

 

「モノとの出会いはめぐり合わせなのだ」

「君がここを通ったのもそういう事なのだろう」

「こちらに来なさい」

「君の新しい眼鏡を作r」

 

 ーありがとうございます。作ります。

 ー向こうの眼鏡市場で。

 

老人が猫をひと撫ですると、猫は愉快そうにニャーと鳴いた。

 

いま使用しているメガネに色々とガタが来ているのでそろそろ買い換えたい気持ちを綴った物語。

ピンチはチャンスのダンスでロマンス

禁煙中の身ですが、いま一番タバコが吸いたくなる瞬間は『歯を磨いているとき』です。理由は皆目見当が付きません。

あまごです。

 

閑話休題



世の中には色々な○○派があるようだ。とあるサイトで調べた結果、私は右脳派であるとのこと。右脳派とは「直感的・創造力に優れているタイプ」で左脳派とは「理論的・判断力に優れているタイプ」のようである。さて、他に何派かと言えば、目玉焼きには醤油派であり、オムライスにはケチャップ派。たけのこの里派であり猫派でありトランクス派でありFF派でアスカ派。

 

色々と分けられるけれども、では、これはどうだろう。文系と理系。


小学2年生とか、それくらいのお話しだ。その頃のあまご少年は、なんともお馬鹿であった。どれくらい馬鹿であったかと言うと、例えば学校でプールがある時。着替えの時には必ずフルチンでクラス中を走り回っては女の子をワーキャーさせていた。後に先生に怒られたのは言うまでも無い。


例えば雨の日の昼休み。遊びたい盛りのあまご少年と数人の友人は女の子の制止も聞かず校庭へダッシュして土砂降りの中を走り回ったりした。びしょ濡れで午後の授業を迎えたあまご少年と友人達は先生に理由を聞かれしどろもどろする。後に先生に怒られたのは言うまでも無い。


例えば放課後。下校時刻を過ぎ生徒達が居ない校庭に友人数名と忍び込み、設置されていた遊具で我々の天下であると言わんばかりの暴れよう。後に校長先生に怒られたのは言うまでも無い。


と言うように、まぁ小学生低学年くらいであればこれくらい元気があってもよろしいかと思うが、放課後校庭忍び込み事件は6年生と言う分別も付き始めた頃に起こしてしまったので性質が悪い。その頃はワルに憧れていたのだろう。ただ、6年生の思考でのワルが『放課後の校庭に忍び込んで暴れる』であるのだからこれもまぁ可愛いものである。


少々話が逸れた。小学2年生の少年に話を戻す。


今でもそうだが、その頃からあまごと言う人物は数学(算数)が苦手だ。計算が苦手だ。分数が苦手だ。だが素数の使い方は知っている。素数は『落ち着きたい時に数えるもの』だ。とある神父が教えてくれた。


また話が逸れた。


その日は算数の授業があった。あまご少年はとても憂鬱であった。授業が始まるとあまご少年は休み時間の暴走が嘘のように、まるであの暴走は俺ではない誰かの仕業であるかのように、ただ静かに、ただただ静かに、先生の「この問題が分かる人~?」の問い掛けもガン無視を決め込み時間が過ぎるのを待った。授業も半ばに差し掛かった所で先生の口から予想だにしない言葉が吐き出される。


「これからプリントを配ります。出来た人は先生に見せてくださいねー」


地獄の始まりだ。そう思った。だが算数が苦手とは言え、簡単な計算問題なら何とか解けるあまご少年。プリントの大半は計算問題ばかりなので、どうにかこうにか正解なのかも分からない数字を書き込んで切り抜けるも遂にお出ましの文章問題。


問題の内容はもちろん覚えていないが、兎にも角にもこの文章問題と言うやつがあまご少年は大嫌いだったのだ。幾度と無く辛酸をなめさせられて来た。今回もきっと解答欄は白紙のままだろうと思った。ところが、閃いたのである。閃いてしまったのである。先ほど、当時の問題は全く覚えていないと書いたが、どういう答えを書いたかは鮮明に覚えている。それぐらいの圧倒的な閃きだった。


意気揚々と解答欄に答えを書き込むあまご少年。先生は「分からない所は聞いてね~。ヒント出しますよ~」と言いながら皆のプリントを覗きながらゆっくりと歩いている。


いよいよ先生はあまご少年の元に辿り着く。いつもならここで「ココが分からない?」とあまご少年のプリントを見ながら尋ねてくる先生であるが今日は違った。いつもなら大概が空白であるはずの文章問題の解答欄が埋まっているのだ。

 

物語は佳境である。もうしばらくお付き合い願いたい。

 

「ちょっと見せてね」と先生は言う。先生は無言だ。一体どうしたのだろう。余裕すら見せていたあまご少年は少し焦り始めた。間違いならそれでいい。そうならそうと、言ってくれればそれで良いのだ。何故・・・無言なのだ・・・。まさか、正解しているとでも?圧倒的閃きによって導き出された答えが、まさか・・・!?


長い沈黙を破り、先生は遂に口を動かした。「後で職員室に来ること」

 

なん・・・だと?

 

さもありなん。あまご少年は圧倒的閃きの回答は以下である。

 

『けいさんする』


なんという事でしょう。あろう事かあまご少年は『計算して答えを出せと言う算数の問題』に対し『計算する義務を放棄し計算するという文学的な回答』をして見せたのだ。先生にしてみれば『計算外』だったであろう。私は果たして文系か理系か…という問題のはずが、これは問題外であるという結論である。


後に職員室でみっちりと算数を叩き込まれた事は言うまでも無い。その後、職員室で2人きりになった女性の先生とあまご少年が、くんずほぐれつ真夜中のハッスル大運動会を開催したのかどうかは秘密である。

いささか強引なかりそめのお話し 後編

好きな死闘は、ビッグブリッヂです。

あまごです。

 

閑話休題

 

(前編はこちら) 

いささか強引なかりそめのお話し 前編 - あまごのぐーちょきぱー

 

 

さて、皆様ご存知の伊佐坂家は


伊佐坂なん物(父)、伊佐坂軽(母)、
伊佐坂甚六(長男)、伊佐坂うきえ(長女)

 

という4人の家族構成のようである。それぞれ名前を調べてみると


なん‐ぶつ【難物】
 取り扱いにくい事物。また、扱いにくい人物。
 「今度の交渉はなかなかの―だ」


おかる【お軽】
 「仮名手本忠臣蔵」の登場人物。早野勘平の妻、山崎の与市兵衛の娘。
 夫のため身売りした祇園(ぎおん)一力楼で、由良之助の助力により、
 敵に内通した斧(おの)九太夫を夫に代わって刺す。


うき‐え〔‐ヱ〕【浮(き)絵】
 江戸時代、西洋画の透視図法を取り入れた遠近感のある絵。
 実景が浮き出るように見えるのでいう。初め、のぞきからくりの眼鏡絵に用いられ、
 芝居小屋内部を描いた浮世絵などにも応用された。遠視画。


じんろく【甚六】
 1:次子以下に比べて、のんびりとしてお人よしな長男を多少のあざけりの気持ちをこめていう語。
   多く「総領(そうりよう)の甚六」の形で用いられる。
 2:お人よし。おろかもの。


軽はお軽サンの呼び名から調査。うきえは浮き餌が由来という説が有力らしい。しかしまぁ甚六は言い得て妙。多少のあざけり。おろかもの。大学浪人から抜け出せないのも納得だ。お人よしなのにも何処となく納得だけれど。


さて、そんな伊佐坂一家も、実は引っ越してきたというではないか。一度ならず、二度までも。

 

 ーすわっ!?


はて、どういう事か。その昔、日曜日のほかに火曜日に再放送でサザエさんが放送されていた。火曜日枠での磯野家(フグタ家)のお隣さんは、浜さん、という画家であった。『浜』であればイメージとしては、サザエさんの中という制約があっても無くても、砂浜であろう。なるほど、浜さんであれば一連の海関連の登場人物の名前に納得がいく。しかし、そんな浜さんは体調を崩してしまい療養の為に伊豆に引っ越してしまったのだ。そこに、この度お隣に引っ越して参りましたと馳せ参じたのが伊佐坂一家である。


だがしかし。


だがしかし、なのである。『浜 → 伊佐坂』という磯野家お隣さん事情には、もう1つ前の歴史があった。浜さんも実は引っ越してきていたのである。では、その前のお隣さんは誰だったかというと、なんと伊佐坂一家だというではないか!!


 ーすわわっ!?

 
つまり『伊佐坂 → 浜 → 伊佐坂』というお隣事情になる。しかし、一度目の伊佐坂一家と二度目の伊佐坂一家は別の伊佐坂一家であるらしい。なんと紛らわしい伊佐坂一家であろうか。

 

しかしこれは脅威である。海水にも浸かった事が無いような一家が、一時的に、いいかげんに、さも当たり前のように居を構えている。一度ならず二度までも。脅威である事には変わりないはずだが、この様な異常事態にはきっとなにか、意味があるのではないか。謎だけでは済まされない、重要な、なにか・・・。私は妄想を続ける。


人間は海から陸へと上がり進化したといわれている。未来永劫その時間が進む事がないサザエさんの世界。海で満たされるその世界は、まさに人間に進化する前のソレに酷似している。そこへ海を度外視した存在が放りこまれた。言わずもがな、伊佐坂一家である。


海以外の意味を持った存在が、海しか知らない世界に現れたのだ。これは進化ではないか。もしくは進化を促す存在ではないか。海から陸へ。その比喩としての存在。作家の父、よく出来た母、出来損ないだが人のよい長男、美人で優しく頭もよい長女。それらは全て一時的でいいかげんな存在であるが、正体は未来への先導者であると私は考える。

 

と、すると新たなる謎が浮上する。カツオの親友である中島、ヒロイン的位置付けのカオリちゃん、それに相対する病的なまでに恋する乙女はもちろん皆の花沢さん。最近の立ち振る舞いからサイコパスという異名で呼ばれる堀川君。その他もろもろ、海関連以外の名前が出てくるではないか。


ではこの人物達もそのような存在であるかと言えば、それはもう知らん。この問題については各自で独自の妄想に努めるが良いのである。私は妄想しすぎて力尽きました。

いささか強引なかりそめのお話し 前編

数か月前からウォーターボトルに麦茶を入れて持ち歩いているのだけれども、ある日こう尋ねられた。「それ麦茶です?」「えぇそうですよ」と私は答える。そしてこう言われた。「麦茶の人ですね」

 

む・ぎ・ちゃ・の・ヒト!(伯方の塩のリズムで)

 

麦茶人(あまご)です。

 

閑話休題

 

リサイクルやエコはもう何年も前から社会や生活の上でのキーワードとなりつつある。かく言う私もエコバッグを持ち歩いたり、それこそ上の掴みでも書いたがウォーターボトルを持ち歩いたりしている。ちなみに麦茶以外を入れていく時もある。まぁさておき、要するに物を大事にしようというわけだ。なんの話かと言えば、これからお届けする文章は過去に私が書いたものを私がリメイクしたものですよという事である。ファイナルファンタジー7もリメイク版が発売されたことだし丁度よい頃合いだろう。・・・はて頃合いとは。


さておき、私は以前の記事で「すわっ」を言える大人になりたい。かもしれない。と書いた。その「すわ」との出会いは司馬遼太郎燃えよ剣』を読んでいて出てきたのだった。まったく笑う場面ではないのだけど、

「すわ、刺客か!」

 
 -んふふ・・・。
 
本当に真面目なシーンであったはずなのに、思わず笑ってしまったのだ。まさに、

 -すわ、しまった!
 -よもや、こんな所で・・・!


である。

このような言い回しや、文章でしか出てこないような言葉使い、古めかしい言い方が好きで・・・例えば、いささか、とか…いささか、いささか・・・

 -すわっ!

本日何度目かの、すわっを体験しつつも私の思考は次第に道なき道へと外れ始める。サザエさんの世界では海に関連した名前が当たり前なのに『伊佐坂』先生とは?主要人物を海関連で統一した事に意味があるのなら、あるいは伊佐坂という名も何か海に関係した意味があるのではないかと考えた私は、早速辞書を引き『いささか』という言葉のちゃんとした意味を調べる事にしたのである。


いささ‐か【聊か・些か】[形動][ナリ]
 1:数量・程度の少ないさま。ほんの少し。わずか。
   「―な蓄えはある」「―なりともお役に立ちたい」
 2:かりそめであるさま。ついちょっと


ここではやはり2の『かりそめ』に注目したい。
ちなみに『かりそめ』の意味は


かり‐そめ【仮初め/苟=且】[名・形動]
 1: 一時的なこと。また、そのさま。「―の恋」
 2:ちょっとしたこと。ふとしたこと。また、そのさま。「―の病」
 3:いいかげんなこと。また、そのさま。「師の恩を―にしてはいけない」


これは3で決まりだろう。よく編集者(ノリスケ)を待たせる体たらく、あまつさえ逃げ出してしまう不届きな様はまさに、いい加減。かりそめ作家・伊佐坂である。

しかし、あれだけ編集者(ノリスケ)を待たせるなどの行為(あの様子じゃぁ原稿落とした事もあるのでは?)をしながら、いまだ干されていない所を見るとよほどの大物なのだろうか、あるいは・・・。

と、まぁそんな感じで伊佐坂の伊佐坂たる由縁を垣間見た気がして決着を迎えたかに思えた。だが、伊佐坂家を調べる内に謎が謎を呼んでしまったのである。


(後編へ続く)

さりとて、ほどほどが一番良い

エアガンをまさにエアーでシューティングしても詰まらないので標的が欲しい。のでとりあえず100均のメモ帳を買ってみました。的になれば良いなって。

あまごです。

 

閑話休題

 

 私はアルコールに滅法弱い。ビールを一口飲もうものなら、すでに顔が真っ赤である。それどころか身体も赤くなる始末だ。飲めないと言って差し支えないレベルである。

 

だから私はアルコールの事はよく分からない。仕事の後の一杯が飲みたくなる事も無い。それが最高に美味い一杯だとしても。なぜなら私は飲めないのだから。寝れないからアルコールで無理やり落ちる事を思い付く事も無いし、缶ビールなどを片手に公園を散歩する気持ち良さも知らない。が、同時にその姿が不審者に見えているかもしれないと怯える心配がないのはありがたい。私には飲みたくなるタイミングは無いけれど、周りを見ればアルコールと言うのは色々なタイミングで飲みたくなるようである。

 

とあるビールのCMを観た。女性が道を歩いていると、ふいに目に飛び込んでくる焼き鳥屋。そしてビール。飲みたくなる女性。それを振り払おうとする。しかし抗えない。吸いこまれるように焼き鳥屋に入り、嬉々として喉を鳴らしビールを飲み、上唇に泡を付けながら極上の笑顔で「シアワセ(はーと)」と言うのだ。

 

アルコールが飲めない私でも、これは美味しいだろうと思う。まさに、この一杯の為に働いているようなもんだぜ!なのだろうし、すべてが報われる瞬間に違いない。それは分かっているし、適量なのだろうから問題は無いんだろう。毎日ってわけでも無いんだろうし・・・。分かってはいる、つもり、なんだけど・・・

 

『我慢できずに居酒屋に吸い込まれてビールを飲んでしまう』のって、どうなんだろうって思った自分が居たのだ。

 

これはきっと私がいま禁煙の真っただ中で、ある程度ニコチンが抜けてきたとはいえ、まだまだ欲望を制御しなければならない状況下にいるからであるように思う。要するに、羨ましいのだろう。忠実に欲望に従い、あんなにキラキラした笑顔を見せられたら嫉妬するに決まっているではないか。私は我慢しているというのに。まぁ自業自得と言えばそうなのだろうが・・・。

 

そのビールのCMが、仮にタバコで同じようなシチュエーションであった時に、もしくはタバコを吸いながらビールを飲むCMだったとしたら、それを見た私は果たしてタバコを我慢できただろうかと思ってしまうのだ。

 

タバコは1998年にテレビやラジオでのCMを自粛している。さらに改正健康増進法が2020年4月より施行されたことにより、喫煙者の方々には死活問題となるだろうが、私個人が得る喫煙に関する情報がさらに減ることになる。例えば道端で吸っている人を見ることは少なくなるだろう。どこかの記事でも述べた気がするが、情報を入れない事も禁煙には重要なポイントの一つだと思っているので個人的にはありがたい。

 

その点でいえば、アルコールを止めたい人にとっては、あの手のCMは恐怖そのものであろうなと思った。タバコは百害あって一利なしと言うが、アルコールだって飲みすぎは良くないだろう。止めたい人だって大勢いるはずだ。限度を守れなかった自業自得。確かにそうかもしれない。でも・・・と思うのである。

 

なので、CMの内容を変えてみてはどうだろう。通信キャリアのCMみたいに、何かを伝えようとしているのだろうけれどまったく伝わらない、あるいは伝える気がない、観ている側のセンスが問われていますよ?私どもは決してスベってなどはいませんよ?みたいなCMに。

 

唐突な通信キャリアCMのディスに、みなさま驚いているのではないだろうか。でも安心してほしい。一番驚いているのは私なのだから。